ジョセフ・アルバースとジョルジョ・モランディ ―芸術の社会性について―

                 

現在千葉県にある川村美術館でジョセフ・アルバース展が行われている。興味があり、動画を検索すると、2021年ニューヨークのDavid Zwirner Galleryで行われたアルバース(ジョセフ・アルバース)とモランディ(ジョルジョ・モランディ)の二人展の動画を発見した。展覧会タイトルにあるNever Finished(永遠な未完)に惹かれた。

動画を見ていくと、アルバースは正方形賛歌というタイトルの絵画作品を無数に制作しており、1点1点の差異が本質で完成品を求めていたのではないことが伺われた。一方のモランディも、テーブル上の静物画を多く制作しており、1点1点の差異から生まれる何かを求めている。同じテーマを無数に制作しているという共通性はあるが、片方は抽象画でもう片方は具象画である。1点だけを見ても分らぬが、しかし1点1点の差異を見ていくと、どちらの作品も静けさを湛えていることが見えてくる。それはある何かを見て、こうだと判断する断言的なものではなく「今あるここ」を肯定していくような瞑想的な雰囲気を備えていることが段々と分かってくる。不思議なのは、アルバースとモランディの作品を単体で見ていくときには分からないが、お互いを見比べたり、似た作品を多数見ていくとそのグラデーションの中に吸い込まれていく感覚に襲われる。それは境の無い世界ではなく、小さな差異がより明確になるのである。しかしその小さな差異は最後まで小さな差異でしかなく、何かを我々に訴えてくるわけではない。

  

     

 

  


有名なモランディの逸話では、家族にモチーフである花瓶などに付着した埃を払わないよう言っていたという。それは同じ花瓶でも観察した時間帯による光の差異や時間が経過したモノとしての存在を感じるための工夫だったのかもしれない。アルバースも僅かな差異の暗い色彩や明るい色彩の中に価値を見出していく様子がある。正方形というカタチから生み出される細かな感情を観客は発見していくのである。それはまるで厳かな教会で過ごす時間のようである。

またアルバースの絵画の支持体であるメゾナイトという素材とモランディの作品のモチーフの花瓶やガラス瓶には共通したものがある。メゾナイトは建築用の資材であり、元々は画材ではない。また花瓶などはどこの家庭にでもあるありふれたものだ。そうした何でもないものを前提にしながら、芸術を求めていくことは一つの錬金術とも言える。その芸術に対する姿勢そのものが一見同一な無数の作品化が生まれる背景になったのかもしれない。ありふれた日常は個人的なものであり、社会との距離が一見ありそうである。実際モランディは社交界には目もくれず、母国イタリアから出ることも興味が無かった。しかし個人の日常をひたすらに積み重ねることで個人が社会化する可能性が出てくるのである。美術史的にもモランディは所謂ミニマリズムを用意した一人である。一方アルバースはドイツでデザインと芸術を統合する思想であるバウハウス学校で育ち教職を経ながらアメリカに渡り、そこで多くの学生と触れ合い芸術の普遍性を求めた。また家具などのデザインの仕事も残している。美術史としてモランディ同様後のミニマリズムに影響を与えている。

芸術家の多くが非日常である芸術と日常の差異の探求を仕事とする。アルバースとモランディは作品の背景にある日常の「何でもなさ」を生涯仕事とし、我々に日常とは何か生きることや、変わらないこととは何かを問いかけているのもしれない。