カール・アンドレとアナ・メンディエタ  -芸術の社会性について- 

  

   

 

アメリカ人彫刻家カール・アンドレの事を書こうとしていたら、妻であるキューバ人美術家のアナ・メンディエタを知ることとなった。結婚当初カール・アンドレはすでに有名なミニマルアーティストであった。アナ・メンディエタはこれから有名になるところであった。アナ・メンディエタは一緒に住んでいたニューヨークの34階のマンションから転落死している。当時はカール・アンドレが被告となり裁判となったが無罪となっている。

カール・アンドレは枕木やタイルなど工業素材を加工せずに並べる行為によって彫刻作品を成立させていた。展示空間(環境)に合わせて鑑賞者がコミット出来る社会的仕組み自体を作品とした。政治活動にも積極的に関わるなど、他の芸術家に比べて社会性の強い作家であった。また妻のアナ・メンディエタも社会派の作家としてフェミズムアーティスト(本人は作品のことをアースボディアートと呼んでいる)として知られる存在であった。泥や花を自然の地形の中で造形化した。有名な人型の作品は、自然の中に生まれては消える生命をイメージしている。その大地性や生命性は後の作家に影響を与えた。二人に共通した世界観は社会性だろう。しかしミニマルアートとフェミニズムアートは重なるところはあるが、結果としての造形に違いがあるためか等しく論じられることはあまりないのではないだろうか。しかしアナ・メンディエタの造形も極端に切り詰められたものであり、積極的な造形でない点ではミニマルアートを感じさせるものである。私が両者の作品を見比べた時感じたことは、作家の個を主張する現代アートの在り方である。奇しくもアンドレメンディエタも個を主張している訳では無い。しかしアートの概念を主張することで作品が成立するために多様なものを包摂出来ないでいるのではないだろうか。このアートの限界とも言える状況に我々は何をすべきなのだろうか。

    

 

現代は地球の環境も経済も科学もある臨界点に来ている。個があって社会があるとする。そこには無数の社会があって、幾多の国家がある。その国家は争いながら地球を共有している。生命は大地から生まれ、大地に眠ると言われる。社会を離れて人間は存在出来ないし、大地が無ければ生きることは出来ない。こうした状況に他者に対する思いやりや想像力が必要なのだろう。

アートは変わらなければならない。人間の複数性という概念をドイツ人哲学者ハンナ・アーレントは残している。互いに差異性がありながら同等である多数性。今でいえばノーマライゼーションやインクルーシヴやダイバーシティ。そのお互いが語り合う「場」を永遠に探してさ迷うのもまた人間の業なのか。しかし前に進まなければならない。私は思う。これからは「アートを皆で見る」時代なのではないかと。その、見たり感じたり受け取ったりする複数がアートの対象である。雲を掴むようなその作業、終わりの無い作業こそが我々の現在なのではないだろうか。我々は我々の現在を見ることが難しい。互いに隔てられた壁の中に生きることから一歩外へ出ること。

私はカール・アンドレの彫刻の社会性を書こうとしながらアナ・メンディエタの作品の神秘性に心揺り動かされた。アンドレメンディエタの作品の原理の違いを理解しながら、まだ私は複数性の概念で語ることが出来ないでいる。