人体彫刻が語り掛けるもの -芸術の社会性について-        

 

連日ウクライナとロシアの戦争、ガザとイスラエル、様々な紛争、日本では東日本大震災能登半島地震、様々な殺人事件、自死、貧困、差別など今生きている我々が乗り越えなければならない社会問題がある。そうした誰でもない誰かとしての私や、私たちが如何に生きるべきかを考える時、彫刻芸術の一つのジャンルである人体彫刻は我々に何を伝えようとしているのかと自問してみた。

頭に浮かんだのは、彫刻家アントニー・ゴームリーの人体彫刻である。元々は自身がモデルである人体彫刻作品がゴームリー本人を離れて誰でもない誰かとして、作品を見る人に訴える。主に鋳物の鉄で作られた、それらの人体は、遠くを見つめていたり、考え込んでいたり、ただ立っていたりと、何かをしているというよりは内面を見つめている人間を彷彿とさせる。表情は抽象化されてのっぺりしながらも独特の人体のポーズが内面を見つめているよう我々に思わせるのである。しかもそれらの彫刻は設置された展示空間と共にあるように見える。それは作品の接地面をゴームリーが強く意識しているからだろう。接地面が意識されると我々鑑賞者と地続きの空間に彫刻が存在するため、我々の内面に強く働きかけてくる。それは、作品を理解しようと鑑賞者が作品を内面化しようとする行為と同化していく。またゴームリーの人体彫刻の物体性、構造性が我々を生きた細胞の集まりのように昇華し、誰でもない誰かを生み出すのであろう。そこに「この今」を如何に生きるべきかと、他者としての私を思わずにはいられないのである。

 

ゴームリー作品をネット画像でひとしきり見るとある作家を思い浮かべた。メダルド・ロッソである。抽象彫刻のパイオニアと言われる彫刻家である。岩の塊から生み出されたような人体彫刻は、我々が「物」であることを強く意識させる。また誰でもない誰かというアノニマス(無名性)な存在として意識される。名前をはく奪されても尚存在する生きた塊としての存在。塊でもあり、溶け出すようなその独特の容態は儚い我々を表しているのだろうか。

 

メダルド・ロッソの次に思い浮かんだ彫刻家は、アルベルト・ジャコメッティ。細長い彫刻が有名だ。彼は身近な存在としての家族や友達をモデルにしながら様々な人体彫刻を作ってきた。しかも昼間はモデルを前にしながら何時間も制作し、夜は記憶や想像によってモデルを彫刻化していくのである。これは実在の人間(他者)が自分にとってどういう風に存在しているのかを飽くなき探求として実践していくプロセスの結果なのである。ジャコメッティにとってモデルを目の前にして触る粘土の一つ一つが実在と同じ重さを持って存在していく。その実在感が、鑑賞者の我々を風景のように存在させる。無限の時間の中に佇む風景である我々はお互いに「ある距離」を持って存在するのである。その距離こそが我々を我々たらしめるとジャコメッティは考えたのだろうか。

ここまで書いてきて冒頭に挙げた如何に我々が生きるべきかを考えた時、上に挙げた人体彫刻作品が我々に語るのは何であろうか。一つには無名な一人としての存在を一人一人が意識して他者を思いやることではないだろうか。生きることは自分一人では出来ない。そばにいる誰かの存在が私を支えているのだ。逆に無名な私が無名な誰かを支えるのである。その「無名性」が、我々を我々たらしめていることに早く世界が気付くべきではないだろうか。